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三重豪NZ協会メールマガジン                          

  季刊 サザンクロス三重

         
Southern Cross MIE

                 
                 2018年春号(通号4号) 2018年2月15日発行


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もくじ

Kiwi的景観論             浜中 謙治

アンデスの夜空            金兼 文典

プラン・ジャパンでの国際交流   長川 朋香




Kiwi的景観論
   浜中謙治


 ニュージーランドの主要都市の空港からなら30分、地方都市なら15分も車で走ればどこでもあの美しい田園風景、グリーンのビロードのような牧場と点在する羊や牛馬の群れに出会うことになる。もっと注意して風景を見るとそこには視覚に不快感をもたらすような人工物がほとんどないことに気が付く。ニュージーランドの自然景観にはおよそ視細胞に不快な刺激をもたらすような大きくてけばけばしい看板、景観に溶け込まない目立った色彩の建物、山並みの稜線を引き裂くような高層構築物、ネオンや電飾、こういう類のものはほとんど見かけない。

ドライブは好きだから世界のあちこちドライブをして回った。アメリカ大陸ならペブルビーチから南へ太平洋岸沿いの国道1号線の海岸道路、ヨセミテ渓谷から標高4000m近くのタイオガ峠を越える山岳道路、英国なら途中ネス湖を眺めるハイランドの道、中近東ではシリアのダマスカスからパルミラに至る砂漠の道、ヨルダンの標高1000mのモアブ高原にあるアンマンから海面下400mの死海に至る歴史の道は途中モーゼがイスラエルの民に約束したというカナーンの地が遠望できる山頂を通る。トルコのアンカラから古戦場ハリュス河を経て古代ヒッタイト帝国の旧都ハットウシャにたどり着く古代の街道。

さてニュージーランドの道の景観はといえばこれらの道には決して引けはとらない。
若い国ゆえ、歴史的遺産には欠けるが総合すれば世界一流の美景といっても言い過ぎではないだろう。その特徴はまずバライテイに富む景観美である。南島なら比較的小さい地域の中に山岳、フィヨルド、氷河湖、海岸、星空などの自然美、牧場や森林、ワイナリーなどの二次的自然の美などがすべて見られる。第二に景観破壊的、視神経刺激的な人工物が見事に排除されており特に山脈の稜線を立ち塞ぐような構築物が一切見られないことは素晴らしい。山には山自体の美しさがあるがそれにも劣らず稜線美も大切だ。稜線美はフラクタルの美であり、どこか一か所でも人工物によってそれが妨げられたら直ちに人は違和感を抱く。

Kiwiたちは当然この稜線美の性質と重要性にも気がついてそれを守るため様々な工夫をこらしているのであろう。しかしこのような景観美の保護は法律をいくら作っても規制を受ける国民の側にも同じような美意識がなければどこかで破綻するだろう。だからニュージーランドの景観美は法規制と国民の美意識の両面から守られていると想像する。

翻って日本の景観を考えるといささか暗然とする。法規制も粗漏だし国民の美意識もあやふやだ。もちろん日本人一般は自然美を愛すること人後に落ちない。景観についてもやはり繊細な審美眼を持っていることは間違いない。古来日本人はフラクタル的美意識を守るため二つの方法を用いてきた。その一つは借景である。

菊を採る東籬のもと 悠然として南山を見る。

これは六朝時代の陶淵明の詩であるがこれは古くから日本人に膾炙されその上漱石が草枕の冒頭に引用したことからもはや国民的美意識の一部になっているといえるだろう。これを景観論の立場から見ればこれはまさに「借景」である。垣の向こうには民家があるかもしれない。そこに洗濯物が干してあるかもしれない。しかし垣がわが庭と南山の風景を結び付け俗世の光景は消し去ってくれている。これが借景的景観鑑賞法である。しかし借景はありどこでも使えるもの修景手段ではない。借景が使えないとき日本人は存在するものを存在しなかったことにするという感覚操作を行う。たとえば安芸の宮島に行ってみよう。対岸の渡船の港を出るとやがて厳島神社の大鳥居と社殿が正面に見えてくる。しかし残念なことに社殿の左右には色も形もまちまちの人家やホテルが立て込んでいる。宮島に着いて社殿の前から海上を見はるかすとかの大鳥居が本土側の山並みを背景として悠然と海に遊ぶさまが見える。しかし背後の山腹になにやら真っ白な巨大構造物が見える。写真家はカメラの角度を工夫して社殿の左右の建造物が映らないようにする。或いはピントを大鳥居に合わせ余分な背景はフォーカスアウトしてぼやかす。しかし生身の人間にはこれはできないから視細胞に映ったものを見えないものとするかなり高度な心理的感覚的操作を施し自分の脳裏には見えていないものとする。これがあるからこそ厳島神社の社殿と大鳥居は日本三大美景の一つとして我々日本人の記憶に刷り込まれる。この感覚操作を活用すれば山脈のフラクタルを乱す高層ビルもネオンの煌めきもある程度まで消し去ることができる。しかしKiwiたちは多分そうは考えない。在るものは在るのであって在らないことにはできない。存在すべきでない物は断乎として拒否し存在させない。それによってコストがかかっても構わない。自分たちにとって重要な、或いは存在意義の一部である景観価値はなんとしても守り抜くという強固な国民意志がそこに見える。その結果景観は国民の意志と厳格な法によって断固として守られる。ここに心理操作に頼りがちな日本人との結果の差異が明確に出てくる。


筆者紹介:はまなかけんじ。1937年大阪市生まれ、1960年伊藤忠商事入社、在職中アメリカ、ソ連(現ロシア)、エジプト、ヂュバイに駐在、同社退職後自営の傍ら世界シニアホッケー協会副会長などシニアスポーツ活動に従事。現在兵庫県在住。



アンデスの夜空
         金兼 文典


 南米大陸の東側は大西洋の海岸が続いていてブラジルにはリオのコパカバナ海岸だけでなく広い広い砂浜が北から南にいっぱいあります。ブラジルの東北地方では朝日が夜明けを早く感じさせるのですが今年もサマータイム実施が決まりましたが対象外で電力事情が実施理由なので南の方だけです。

9月7日ブラジル独立記念日をはさんで愛国週間は学校は授業がなく3人の大学生の孫たち学友女性ひとり、末娘に家内と7人でチリーのサンチアゴ市に出かけました。サンパウロ国際空港を出発し四時間余りで首都郊外のチリーに到着します。小型バスにてサンチアゴ市内見学から始まりガイドが丁寧に宮殿、博物館、図書館、公園、市場等々欧州風の建築物を見せながら建国から近世から現在の国情を説明してくれました。南北に長い地勢で複雑な海岸線と6,000メートル級の山々のアンデスに囲まれた国です。北には砂漠や乾燥地帯に地下資源も豊富です。南はフィヨルド状の複雑な海岸線にパタゴニアから南極に漁業も盛んです。火山も地震もあり温帯の盆地には葡萄栽培が各地にありワイン醸造は重要な産業です。ブラジル以外の中南米諸国はスペイン語が国語ですがメキシコ、ペルーなどと同じくチリーにも先住民族がいて歴史や遺跡が残っています。次の日同じ車とガイドで西の方に向かい、海岸山脈のトンネルを抜けたり盆地の葡萄畑を通って、バルパライーゾの港町に約2時間ばかりで着きました。太平洋が180度に広がります、何千キロも真っ直ぐに西方にはニュージランドが、途中にはイースタ島、パスコアともいいますが復活祭の意味です、日本とは津波の方が知られていますか。海岸から岸壁から小高い頂上まで家が建ち並び色鮮やかな壁、屋根、窓があってまさに風景画そのものを見ているようでした。海辺に続く隣のリゾート市街ビナデデルマルは明るくモダンな建物でやはり斜面があってフリクラと呼ぶ簡易ケーブルカーがいくつもあり日常生活用の施設になっています。昼食は海岸通りに並ぶ海鮮料理店でした、蟹、蛸、烏賊なんでもあります。サンチアゴの外港であるバルパライーゾは商港として栄えて気候にも恵まれた地方です。チリー海軍の拠点でもあります。

地勢と気候の組み合わせで葡萄栽培が盛んでチリーのぶどう酒は愛飲と輸出が特出です。勿論地下資源のなかでも銅の生産が有名です。お土産品や靴下にも銅が使われています。もう一つは鮭の養殖で日本人も事業を展開しています。ブラジルにチリー産の鮭が出回っており、お寿司屋さんには定番です。

次の日は東の方に向かい少しずつ登り坂気味の街外れにて防寒着と靴を借りて車はずんずん登り続けます。日光のいろは坂を何倍にも拡大した感じです。チリーの自動車は全部輸入で日本車もたくさん走っています。約3時間ばかりでバーレネバダ(雪の渓谷の意訳)に着きアンデス山脈の麓からは標高3,100メートルの地点ですが一面雪に覆われています。全体の高さから半分位ですがどちらを向いても雪山です。スキー場もあって観光客の大半がブラジル人でした。孫達もそりを使ってしばし雪遊びをして時間を過ごしました。途中山小屋風のレストランにて昼食休憩で道路脇には狐などが出没し谷間にはコンドルがゆっくり宙返りするのが見えました。

サンチアゴ市内には地下鉄が六路線あり、ホテルの近くから乗った線の車輪はタイヤで低騒音です。最近完成のタワービルに向かいました。地階から三階まではスーパーやショッピングにレストランで品物もなんでもありスマートで薄青色のビルは61階で展望台へは高速エレベーターで昇ります。360度の眺望ができてサンチアゴ盆地がよくわかります。

空の旅往路は夜八時頃で復路は早朝六時前でした。ちょうどアンデス山脈にかかると機内アナウンスがあってテレビなどが消え照明も少しばかり暗くなった気がします。窓外には雪で覆われたアンデスの山々が良く見え北側にはひときわ目立つアコンカグアの峰が確認できます。夜空には満点の星が散らばっていて南十字星の位置つけを忘れていました。



筆者紹介 かねがねふみのり。昭34福井県立敦賀高卒、同年家族五人でブラジルへ農業移住。ウジミナス製鉄所勤続50年半、現在年金にて在サンパウロ。




プラン・ジャパンでの国際交流
        長川 朋香


 我が家は、1996年5月から「公益財団法人プラン・インターナショナル・ジャパン(旧日本フォスター・プラン協会)」のスポンサーペアレンツ(SP)をしています。うちには子供がいないので、子育て費用や、教育費がいらない分、少しでも世界の困っている子たちの役に立てたらいいなと始めました。他にも国際子ども支援団体はありましたが、私は手紙を書くことが好きだったので、手紙で交流できるのがいいなと思い、ここを選びました。交流する子どもたちは、スポンサーチャイルド(SC)と呼ばれますが、養子にするわけでも、その子に直接お金が渡されるわけもなく、いわば、コミュニティの中の親善大使的な役割で、その子の成長を見守ると共に、コミュニティの発展を見届けるといったところでしょうか。

 最初のSCは、アフリカ・マラウィのMilikaちゃんでした。7歳から18歳でSC卒業となった2007年5月まで、11年間交流しました。宮本先生がゼミ合同会(在校生と卒業生の交流会)の時に「マラウィってどこにあるの?」と聞かれたのを覚えています。アフリカ大陸の南東部にあるマラウィは、縦長の国土に、大きなマラウィ湖が特徴です。北にタンザニア、南東にモザンビーク、西にザンビアがあります。今はわかりませんが、当時は大統領の意向で、女性は必ずスカートをはくことが義務付けられていると知り、驚きました。たぶん彼女との交流がなければ、マラウィという国の存在自体知らなかったと思います。

 2人目からは、事務局に「年長チャイルド(SPの都合で交流が途絶えたまま卒業間近のSC)でも構いません」と伝えました。2人目がまたもやマラウィのVailetさん、3人目はネパールのBindaさん、4人目はエルサルバドルのJose-Adolfo君、5人目はインドのDurgaさん、6人目はタンザニアのAshuraさん、7人目がケニアのMwanasitiさんです。最初は、月5000円×3か月分の引き落としだったのですが、社会情勢の変化(経済不安)でSPを辞める人が増えたため、2012年3月に「月3000円に下げるので、2人同時に引き受けてくれないか」と事務局から要請があり、Bindaさんと同時にJose-Adolfo君とも交流することとなりました。SCの地域(アフリカとか中南米とかアジアとか)と性別は希望が出せるので、今は、より厳しい環境にある「女の子」を希望しています。

 SCたちは、最初のうちは、手紙を書く習慣がないせいか、コミュニティボランティアが話を聞いて代筆することが多いのですが、だんだん自分で書いてくれるようになり、成長を感じます。また、コミュニティの発展も、井戸ができて、遠くの水汲み場まで行かなくてよくなったとか、学校に清潔なトイレができたとか、妊婦健診や母親学級が始まって、子どもたちの衛生状態が改善されたなど、年次報告で知り、嬉しく思います。

 始めてから21年、これからも細々と続けていこうと考えています。


筆者紹介:ながかわともか。1968年愛知県名古屋市生まれ。三重大学人文学部社会科学科宮本ゼミ卒業生。夫の転勤で、船橋(千葉)、神戸、草津(滋賀)、横浜、名古屋と移り住み、現在6ヶ所目の福山(広島)暮らし1年目。




編集後記

 2018年春号をお届けします。「春」は暦の上だけのこと、厳しい寒さが続きますが、みなさまのご健康をお祈り申し上げます(M.T.)。

「サザンクロス三重」のバックナンバーは協会のホームページでご覧頂けます。
URLは
<http://www.mieoznz.com/> http://www.mieoznz.com/です。







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